ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

継続的回心 マタイ19章

無事に一部執行猶予を終えることができました。終えるにあたって主からお祝いのしるしをいただきました。

「0077」

地元八戸の地を離れ福島の会社の雇用を受けるにあたり社長に一つのお願いをしました。携帯の準備です。前の携帯は元内妻の助力もあり念願の番号「1963」を主によって与えていただくことができました。(過去記事参照)

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しかし内妻との別れによってその番号を失うことになってしまいました。それで携帯をどうにかしなければならないと必要に迫られていたのです。

6月某日。いよいよ社長が携帯の契約に赴くことになりました。私が出したリクエストは下4ケタの頭が「00がいいな」ということだけです。そして与えられた番号が「0077」。私の保護観察が満了する7月7日です。

主はあらかじめこの日を祝っていてくださっていたのです。

このエピソードを知り合いのクリスチャンに話したところ
アメイジング!神様大好き!」
との言葉をいただけました。こちらが大喜びです。

今回の聖書箇所は「聖霊に導かれて歩む366日」という本の7月7日の箇所を選ばせていただきました。

13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。
マタイ19:13~14

ひとりの母親がひたすらに聖書を隅々まで読み、聖なる生活の秘訣を探り出そうとしていたとする。霊的な助けを求めるのに多くの時間を費やしたので、家事を行うのが煩わしくなり、さっさと済ませるか無視をした。そして家庭の「家庭らしさ」は失われてしまった。

ある日、母親が学びに没頭していると、幼い娘が壊れた人形を持って、よちよちとそばに寄ってきた。「ママ、お人形さんなおして」。母親はイライラしたしぐさで娘を払いのけた。「ママはお人形さんのことを心配するよりも、もっと大事なことがあるのよ」。娘は悲しそうに去っていき、母親はまた聖さの探求を続けた。

けれどもその探求は実を結ばず、母親はため息をついて聖書を閉じると娘を捜した。娘は部屋の隅で大切な人形を握りしめて寝ていた。愛らしい顔はまだ涙で濡れている。母親は心を打たれた。神が母親に語りかけたのはその時だった。

母親はそっと娘のそばに寄るとキスをして起こした。それから両腕に抱くと神に赦しを求めて祈った。務めをおろそかにすることで聖さを増大することはできない。とわかったのだ。それ以来、主に対する母親の献身は家事を切り盛りする中に見られ、壊れた玩具を直すことの中にさえ輝き出た。家庭は再び家庭になった。そして聖書のどのページも新鮮な栄光で光輝いた。
ある英国の説教者

 

昨日、会社の親睦会でバーベキューがあった。私はそれよりもブログ更新をしたいなという気持ちが強かった。今日も仕事が休み。今日こそは。と思いPCに向かった。途端、電話が鳴り「数時間で終わる仕事なので手伝って欲しい」と。渋々OKしたものの不機嫌になった。まさにこの母親と同じ思いがあったのではないかと考えさせられる。

 

「一路」一人一人が力を尽くして耕す(過去記事参照)を思い起こしてみた。

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生きている限り私たちは繰り返し向きを変え、神の子どもとして絶えず神に頼る者でなければならない。神ではなく自分の知恵に頼るなら、やがてそれがもたらす結果に責任を問われることになる。神の摂理によって新しい状況に導かれたなら、ただちに生来のいのちが神の御霊の命じられることに服従するようにしなければならない。

一度そうしたからといって改めてそうする必要にはならないからである。霊的ないのちに対する生来的ないのちのこのような関係は、連続的な回心といえる。ところがこれこそが私たちの嫌うことなのである。

私たちがどのような状況に置かれようと神の愛は少しも変わることなく、神の救いにはいささかの変更もない。しかし、私たちは「新しい人」を着なければならないのである。私たちが向きを変えるのを拒むたびに、神はその責任を私たちに問われる。私たちが拒絶するのは、自分でもわかっているのに頑固でいるからである。しかし私たちは生来の性質にではなく、神に支配されなければならない。

私たちの霊的な成長が阻害される原因は、私たちが向きを変えようとしないことにある。つまり「従うのはいやです」と高慢を吐き出すのである。私たちは〈独立〉や〈自分勝手〉を格別に尊び、それらに間違った名前を付ける。神が〈頑固という弱点〉とみなされるものを私たちは〈強さ〉と呼ぶのである。

私たちの中には、まだ神に服従していない領域がいくつも残っている。それらが服従するようになるための方法は、この継続的回心以外にはないのである。

オズワルド・チェンバーズ

 

豊かな恵み

仕事の方がひと段落つき、所用もあってあって会津にて過ごしております。7日で出所から2年が経ち一部執行猶予の保護監察期間が満了します。最後の保護司面談が5日に行われ晴れて罪科の終了です。

主が私たちをしばらく見放されることがあるとしても、それはいつまでもではない。私たちがお気に入りの装飾品を2〜3日はずすことがあったとしても、忘れたり、ごみ箱に放り投げたりはしない。愛する者を見捨てることは、主にふさわしいことではない。なぜなら「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」(ヨハネ13:1)とあるからである。

永遠の昔から私たちを選ばれた主は、永遠にわたって私たちを愛される。私たちのためにいのちを捨てるほど私たちを愛されたお方の愛は、いつまでも絶えることがない。彼の栄誉は、私たちの救いのうちに幾重にも層をなして包みこまれている。それゆえ、栄光の王としてのご自分の衣を放り投げることは不可能であるように、私たちを投げ捨てることも不可能である。

「わたしは、主に見放された」と考えるだろうか。主はわたしと婚約されたお方である。なぜその主に、そのような悪意を抱くのか。そんな考えが二度と心のうちに入り込まないように祈りつつ歩む。

「神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった」(ローマ11:2)

「わたしは離縁する者を憎む」(マラキ2:16)

あまりの悲しさに押し潰されると、最も大切な慰めの源さえ忘れてしまう。ほんの小さな打撃が大きな痛みを引き起こしてしまう。しかし深刻な一撃によって意識を失うと、襲撃を受けたときの痛みさえ覚えていないものである。悲嘆があまりにひどいと知力を奪われ、平安を得る手段さえ思いつかないことが起こる。懲らしめの鞭のもとでは、痛みははっきり記憶されるが、癒しの約束は意識の荒野に埋没していく。

イスラエルの民は神の懲らしめのもとにあったとき、神の契約を忘れてしまった。というのは、彼らの悲しみと失望があまりに大きく影響したからだ。これが彼らの状況だった。自分自身の場合はどうだろう?

その耳は悲しみのために聞こえなくなってしまったのか。心は無気力のために健忘症に罹ってしまったのか。わたしの苦難は神の存在よりもリアルに思われるものか。わたしを包んでいる不吉な悲しみは、天と地のすべての光を暗黒にしてしまうほどのものなのだろうか。

主は今も自分と契約関係にあることを忘れてはならない。「彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる」(哀歌3:32)

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)主なる神は約束を誠実に守ってくださる方。

神はまた「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」(イザヤ43:2)とおっしゃられる。

これらのみことばを堅く信じよう。神はわたしを支えられる。涙を払いのけ、体を洗って身に油を塗り、主の宮に入ろう。勇気を失ってはならない。主はわたしの心を強くしてくださる。

 

猛暑の中、ヨナ書のとうごまの教えを思いつつ仕事に励んでいます。

「わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ4:11)

 

癒しの御手~近況報告

20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22エスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。
マタイによる福音書9:20-22

 

長らくブログから遠ざかっていました。理由の一つに生活状況の変化があります。

 

かいつまんでの話しですが、まず刑務所受刑の頃に話は遡ります。工場で私は掃夫を担当しておりましたが、机を並べて経理を担当していた方がおりました。建設会社の社長Nさん、年齢は私と同じです。Nさんにはたいへん良くしていただきました。

 

そのNさんが私の出所より1年数か月遅れて出所してきたのです。Messengerを通じて連絡が入りました。そして今年3月と4月にわざわざ八戸にまで顔を見せに来てくれました。薬物や憎むべき犯歴の方ではないので安心です😁

 

そして、眼に不自由のある私の雇用を約束してくださいました。手探りをしながらの準備が進み先月、八戸から福島への転居が実現しました。

 

ところが、予定していた現場が私が韓国籍なことを理由に入れないことになってしまいました。現在、会社寮にて違う現場の調整中です。見知らぬ土地に来て、知る人もなく、心細い限りでした。

 

しかし、逆風に思えていたこのことが私に時間を与えてくれることになります。今日、社長が突然「虻さん、今のうちに義眼を造った方がいいよ」と言ってきました。実は私は不注意から義眼を紛失したままだったのです。

 

そして「虻さんの面倒はみていくから」と声をかけてくれました。

 

不思議です。
逆風と感じていることがすべて順風に変わるんです。

 

 

冒頭の聖書箇所では、主が女を癒したとき、主は「あなたの信仰があなたを治した」と言っています。「愛する娘よ、あなたは何も持たず、人に見捨てられているが、天の父はあなたを忘れてはいない」ということを言われたのです。

 

天の父は私をお見捨てにはならない。ただただ感謝するばかりなり。

聖書の読み方 1コリント1章

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第一コリント1章。パウロはまず、他の手紙の場合と同様に、キリスト・イエスの使徒とされたことで始めている。

「手紙」の解釈原理のルールとして、手紙を読むときは集中力と忍耐力が不可欠になる。なぜなら、手紙の本文にはたいてい、論理的で緻密な議論が含まれているからだ。しかも、神学的に重要な言葉が多く見られる。1節に少なくても1語くらいはあるのではないだろうか。

物語は、もっとリラックスして読めると思う。しかし、手紙は違う。第一コリント1章4~8節は、原語のギリシア語としては一つの文で、感謝とその理由(コリント教会に与えられた神の恵み)が述べられている。しかも、すべての節(1~9節)に「キリスト」への言及が見られる。

つまりパウロは、10節以降で扱う教会の分裂問題を解決する鍵として、何よりもまずキリストを提示しているのである。このように手紙は文と文とのつながりが密接で、注意深く読んでいくことが求められる。また、重要語として「神の恵み」「ことば、知識」「賜物」「キリストの現れ」「真実」などを挙げることができる。

 

第二のルールとしては「歴史的、文化的文脈で読む」ことがある。新約の多くの手紙は、当時の教会がその時々に経験していた様々な課題た問題を取り扱っている。そのため手紙を読んでいくとき、聖書内外からの歴史的、文化的文脈の学びは大きな助けとなる。他のジャンルにおいても、その学びは必要だが、預言書とともに手紙ほど歴史的、文化的文脈の学びが必要なものは他に無いと言ってよい。

第一コリントを読むと、いろいろなことがわかってくる。パウロは今、伝道旅行中でエペソにいること。何か月後かには、再びコリントに行けるのではないかと考えている(2コリント12:14、13:1)。始めコリント教会は、パウロによってスタートし豊かに成長していった。しかししばらくして、パウロは、成長する教会に様々な問題が起こっていることを知る。そこでパウロは祈り、愛を持ってこの手紙を書きはじめる。

 

第三のルールは「字義的文脈で読む」。第一コリント1章において、手紙の書きだしと本文は明確に区分されている。10節で早速、第一の問題が提起されているからだ。(「……あなたがたにお願いします」)。そして、この問題についての教えと勧めは、5章1節の「……いるとのことです」という次の問題提起まで続いている。パウロは分裂問題に対して、1章10節で、キリストの名による一致を求めている。また内容的にもパウロが、キリスト(と御父と御霊)を繰り返し強調していることがわかる。これこそ、私たちが注目したい字義的文脈なのである。

 

第四のルールとしては、「文字通りかそうではないかを確認して読む」こと。文字通りかそうでないかは、判断しにくく難しい場合がある。解釈上の重要な問題が含まれていることがある。まずここでは、どちらかに決定することよりも、このことについて考えることの大切さを強調したい。

聖書の様々なジャンルの中で、「物語」とともに、手紙には比喩が少ないと言える。しかしそれでも、細かく読んでいくと、文字通りではない表現が含まれていることがわかる。約束の地カナンは、「乳と蜜が流れる」(民数13:27)ところと言っているが、これを確認するためにイスラエルに行った人はいないであろう。それでは「山をも動かす信仰」(マルコ11:23)はどうだろうか。

第一コリント1章21節にある「宣教の言葉の愚かさ」は文字通りだろうか。宣教の方法の愚かさだろうか、それとも宣教の内容である御子の十字架が愚かと言うのであろうか。人間の知恵によっては、十字架による神の救いがわからないので、そのギャップをあえて「愚か」と呼んでいるのだろうか。考えてみる価値はあると思う。

エペソ人の手紙1章3節の「天上にあるすべての霊的祝福」とはなんであろう。文字通りにとることもできるが、さらにここで手紙を書いたパウロの詩的、聖霊的センスと強調を感じられる。「天」は私たちの次元をはるかに越え、聖霊のダイナミックな臨在と働きを表している。このように、「文字通りか、そうでないか」を考えながら読んでいくと、聖書の意味についていろいろな発見ができると思う。

 

ひとつ言うならば、「十字架の言は、滅びゆく者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。神の子が捕らえられ十字架にかけられ殺されてしまう、そんな者が救い主だなんて……それがユダヤ人の判断であり、つまずきだったのである。が、キリスト教の信仰は、どこまでもイエスの十字架を私たちの救いの事実として受けるところから始まる。

私たちが人を信仰に導くとき、真剣になって、ああだ、こうだと説明をする。つまり私たちはイエスの弁護士になってしまったりする。しかし、聖書には一度も神の弁護士になりなさいとは記されていない。「神の証人になりなさい」と記されているのである。弁護士は法律に十分に通じていなければならないが、証人は一つの事実を体験しただけでよい。だから証人には幼児ですらなれるのである。ただ自分の見た事実を言えばよいのである。

 


すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
1コリント1:19

この世で賢い者にとって、この聖句は脅威となる。しかし、単純に主を信じる者にとっては約束となる。自分には学問があると高ぶる者は、単純に主を信じている人の信仰を踏みつぶそうとやっきになる。しかし彼らの試みは失敗する。彼らの議論は食い違い、彼らの理論は自らの重さのゆえに崩壊する。彼らの用意周到なたくらみは、目的を達成しないうちに暴露される。

古くからある福音は、まだ死に絶えてはいない。主が生きておられるかぎりはすたれるはずはない。もし抹殺される可能性のあるものだとしたら、とっくの昔に地上から姿を消していただろう。

私たちが知恵ある者の知恵を滅ぼすことはできないし、そうする必要もない。このような仕事は、私たちよりはるかに優れたお方の手にかかっているからである。主は自ら「わたしは……する」と言っておられる。主のおことばに間違いはない。この聖句の中で、主は二度にわたってご自分の目的を明らかにし、「わたしは滅ぼし、むなしくする」と行っておられる。だから、主はその通りにしてくださると確信していればよいのだ。