ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

御言葉が人を生かす 詩篇1篇

Happy is the man who does not go in the company of sinners

詩篇を読むとき、信者たちが絶望の底から神に叫んだり、祝いの高みにおいて神に歌を歌ったりしているのを聞くことができる。しかし詩篇記者が絶望していようと喜んでいようと、正直な感情を神と分かち合っているのを聞きとるだろう。そのような記者たちの正直な表現のゆえに、歴史を通して多くの男女が、苦しみと悲しみのときに慰めを求めて、繰り返し詩篇を読む。その人たちは詩篇を通して、神にとこしえの愛と赦しの力を見出し、絶望の底から抜け出て、喜びと賛美へと引き上げられる。正直な詩篇に導かれて、神との深く真実な関係を持ちたい。


悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
詩篇 1:1 口語訳

1節に「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」とうたわれている。「悪しき者」「罪びと」「あざける者」、この三つは、神に対して正しく生きようとしない者を三様に語った言葉である。人間は元来、神に向かって正しく生きていくべき存在であるのに、罪という言葉に「的をはずす」という意味があるように、まことの的である神以外のものに向かって生きるところに不幸があるというのが、聖書のメッセージである。

神は人々を人種、性別、国籍によってさばかれない。神は人々を神に対する信仰と明らかにされた神の御心への応答によってさばかれる。神の御心に熱心に従おうとする者は祝福されている。神は彼らを見守ると約束しておられる。対象的に神を信頼せず神に従わない者は、塵のように吹き飛ばされ意味のない人生を送る。私たちの前には人生の道が2つだけである。


主の御言葉は、単に聖書に書かれた文字や言葉ではない。御言葉には「いのち」と「力」がある。どういうことか?「鶴の一声」とも言うように言葉に力があるかどうかは語る人の人格と関係がある。

それが神の言葉なら、短い一節でもそれが意味するある概念でも、御言葉が全体として語る神の国の世界観でも、聞く人にいのちと力を与え、人を生かし、望みを抱かせ、人を動かし、人を造り変える。

しかし、言葉が力をもって人に臨み、そのとおり働くかどうかは、その人の主への態度次第である。 ここに、畏れと礼拝の心を持って人が神様に向かうかどうかが問われるゆえんだ。 それはその人自身の問題でもあり、それを取り巻 教会員の一人ひとりの問題でもあり、その重要性 教会のリーダーがどう認識しているかの問題でもある。人は環境に左右されやすい存在だからだ。

木が水路のそばに植わっているように、ひとりの人が真に礼拝の心を持って御前に出るなら、主はその人の言葉や態度やその実をもって周囲に臨み、その愛と尊厳ときよさとを現される。

それは次々と伝染し、そこに居合わせる人は主のきよさと尊厳に触れ、御前に膝をかがめ礼拝に至る。その時、主はその人の霊の耳を開き御言葉を悟らせ、慰めと喜んで従う心を与えられます。こうして人はいのちの御言葉に生かされるのだ。


このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
詩篇 1:2‭-‬3 口語訳

1節が神に対する正しい姿勢をとる者の消極的な面をうたっているとすれば、2節はその積極的な姿勢をうたっている。すなわち、そういう人はまず主のおきてをよろこぶ。このおきてという言葉は「約束の言葉」と読みかえるとよい。

まず神の言葉をよろこぶ、尊ぶ、そして昼も夜もそのおきてを思う、すなわち、日がな神の約束の言葉に信頼して生きるという意味である。しかしここの「昼と夜」を日がな、終日と受けとると同時に、「明るいときも暗いときも」あるいは「幸いなときも不幸なときも」と受けとることもできる。

私たちはその現実が意のままにならぬようなときしばしばあせる。あせりは神を待つことができないときに起こってくるものである。 なぜ神 を待つことができないのか、それは神の約束の言葉があまりにも私たちの思いとかけ離れているように思えるからである。

しかし神が約束をなさるとき、神はご自身の可能性に立って約束をなさるのである。だから人間である私たちにとってそれがどんなに困難なように思われようと、神は創造の神、すなわち無から有を生ぜしめるかたである。現実はどのようであろうとも、神が意志されるとき、神は神ご自身の力をもって事をなされるのである。そのことをどこまで信じて生きるところに私たち信仰者の行き方がある。

ヘブル人への手紙13章5節

お金を愛する心を捨て、いま与えられているもので満足しなさい。神は、こう約束しておられます。「わたしはどんな場合にもあなたの期待にそむかず、あなたを見捨てない。」(申命31・6)
へブル人への手紙 13:5 JCB

以前の記事でも使った言葉「幸せのハードル」。一つのものを手に入れると人は次のものに目が向きます。私もそうです。欲しい本を買い何冊も増えてくると本棚が欲しくなる。ブログ記事を書くためにタブレットを買った。すると今度は椅子に座って机でのほうが勝手が良いかなと考える。

実は昨日フリマサイトで1000円で買った学習机が届き部屋に置いたところです😀

「あれも、これも」と、なんでも欲しがってるわけではない、本当に必要かどうか吟味しているつもりでも人は「幸せのハードル」を高くしてしまいます。

私は時にゴミ回収の仕事を頼まれることがあります。トラックに不燃ゴミを積み、処理場に行くと次から次へとトラックがダンピングしゴミの山ができあがってゆく。その山の大きさに啞然とさせられます。中には新品と見紛うものも結構にあるのです。

控えめのもので生活する努力が必要かと考えさせられます。神が私たちの必要を十分に満たしてくださっていることを知るとき、私たちは満足を知ります。物質主義に陥ると金持ちであれ貧乏であれ不安感の虜になり金銭を愛するようになりがちです。

それに対抗する唯一の手段は、神がすべての必要を満たしてくださると信頼することです。今まで与えられたものの中に神の愛が表されていることを思い、お金もすべての所有物もいずれ過ぎ去っていくことを覚えましょう。

この世は、やがて滅び去ります。同時に、これらの禁じられた欲望も消滅します。しかし、常に神に従って歩む者は永遠に生きるのです。
ヨハネの手紙Ⅰ 2:17 JCB


「わたしは決してあなたを見捨てない」神が私を見捨ててしまわれるのではないかと考えるのは困難の時ではなく退屈で骨の折れる仕事が再現なく続く時である。「困難の丘」❲ジョン・バニヤン天路歴程』❳はどこにもなく、将来に対する幻もなく驚くべきことも美しいこともなく、ただありふれた一日が始まり終わっていく。そのような中でも「神はこう言われる」という言葉が 私に聞こえてくるだろうか。
私たちは神が何か特別なことをしようとして、その大きな役割に備えて私たちを少しずつ整えておられると考えている。ところが、神の恵みの中を進んでいくにつれ、神は今ここで、この瞬間に、ご自身のご栄光を表してくださっていることに気づくのである。「神はこう言われる」という声が背後から聞こえたら、思ってもみなかった力が加わり、平凡な日々や暮らしの中でも歌が口をついて出るようになるのである。
オズワルド・チェンバーズ