ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

聖書の読み方 1コリント1章

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第一コリント1章。パウロはまず、他の手紙の場合と同様に、キリスト・イエスの使徒とされたことで始めている。

「手紙」の解釈原理のルールとして、手紙を読むときは集中力と忍耐力が不可欠になる。なぜなら、手紙の本文にはたいてい、論理的で緻密な議論が含まれているからだ。しかも、神学的に重要な言葉が多く見られる。1節に少なくても1語くらいはあるのではないだろうか。

物語は、もっとリラックスして読めると思う。しかし、手紙は違う。第一コリント1章4~8節は、原語のギリシア語としては一つの文で、感謝とその理由(コリント教会に与えられた神の恵み)が述べられている。しかも、すべての節(1~9節)に「キリスト」への言及が見られる。

つまりパウロは、10節以降で扱う教会の分裂問題を解決する鍵として、何よりもまずキリストを提示しているのである。このように手紙は文と文とのつながりが密接で、注意深く読んでいくことが求められる。また、重要語として「神の恵み」「ことば、知識」「賜物」「キリストの現れ」「真実」などを挙げることができる。

 

第二のルールとしては「歴史的、文化的文脈で読む」ことがある。新約の多くの手紙は、当時の教会がその時々に経験していた様々な課題た問題を取り扱っている。そのため手紙を読んでいくとき、聖書内外からの歴史的、文化的文脈の学びは大きな助けとなる。他のジャンルにおいても、その学びは必要だが、預言書とともに手紙ほど歴史的、文化的文脈の学びが必要なものは他に無いと言ってよい。

第一コリントを読むと、いろいろなことがわかってくる。パウロは今、伝道旅行中でエペソにいること。何か月後かには、再びコリントに行けるのではないかと考えている(2コリント12:14、13:1)。始めコリント教会は、パウロによってスタートし豊かに成長していった。しかししばらくして、パウロは、成長する教会に様々な問題が起こっていることを知る。そこでパウロは祈り、愛を持ってこの手紙を書きはじめる。

 

第三のルールは「字義的文脈で読む」。第一コリント1章において、手紙の書きだしと本文は明確に区分されている。10節で早速、第一の問題が提起されているからだ。(「……あなたがたにお願いします」)。そして、この問題についての教えと勧めは、5章1節の「……いるとのことです」という次の問題提起まで続いている。パウロは分裂問題に対して、1章10節で、キリストの名による一致を求めている。また内容的にもパウロが、キリスト(と御父と御霊)を繰り返し強調していることがわかる。これこそ、私たちが注目したい字義的文脈なのである。

 

第四のルールとしては、「文字通りかそうではないかを確認して読む」こと。文字通りかそうでないかは、判断しにくく難しい場合がある。解釈上の重要な問題が含まれていることがある。まずここでは、どちらかに決定することよりも、このことについて考えることの大切さを強調したい。

聖書の様々なジャンルの中で、「物語」とともに、手紙には比喩が少ないと言える。しかしそれでも、細かく読んでいくと、文字通りではない表現が含まれていることがわかる。約束の地カナンは、「乳と蜜が流れる」(民数13:27)ところと言っているが、これを確認するためにイスラエルに行った人はいないであろう。それでは「山をも動かす信仰」(マルコ11:23)はどうだろうか。

第一コリント1章21節にある「宣教の言葉の愚かさ」は文字通りだろうか。宣教の方法の愚かさだろうか、それとも宣教の内容である御子の十字架が愚かと言うのであろうか。人間の知恵によっては、十字架による神の救いがわからないので、そのギャップをあえて「愚か」と呼んでいるのだろうか。考えてみる価値はあると思う。

エペソ人の手紙1章3節の「天上にあるすべての霊的祝福」とはなんであろう。文字通りにとることもできるが、さらにここで手紙を書いたパウロの詩的、聖霊的センスと強調を感じられる。「天」は私たちの次元をはるかに越え、聖霊のダイナミックな臨在と働きを表している。このように、「文字通りか、そうでないか」を考えながら読んでいくと、聖書の意味についていろいろな発見ができると思う。

 

ひとつ言うならば、「十字架の言は、滅びゆく者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。神の子が捕らえられ十字架にかけられ殺されてしまう、そんな者が救い主だなんて……それがユダヤ人の判断であり、つまずきだったのである。が、キリスト教の信仰は、どこまでもイエスの十字架を私たちの救いの事実として受けるところから始まる。

私たちが人を信仰に導くとき、真剣になって、ああだ、こうだと説明をする。つまり私たちはイエスの弁護士になってしまったりする。しかし、聖書には一度も神の弁護士になりなさいとは記されていない。「神の証人になりなさい」と記されているのである。弁護士は法律に十分に通じていなければならないが、証人は一つの事実を体験しただけでよい。だから証人には幼児ですらなれるのである。ただ自分の見た事実を言えばよいのである。

 


すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
1コリント1:19

この世で賢い者にとって、この聖句は脅威となる。しかし、単純に主を信じる者にとっては約束となる。自分には学問があると高ぶる者は、単純に主を信じている人の信仰を踏みつぶそうとやっきになる。しかし彼らの試みは失敗する。彼らの議論は食い違い、彼らの理論は自らの重さのゆえに崩壊する。彼らの用意周到なたくらみは、目的を達成しないうちに暴露される。

古くからある福音は、まだ死に絶えてはいない。主が生きておられるかぎりはすたれるはずはない。もし抹殺される可能性のあるものだとしたら、とっくの昔に地上から姿を消していただろう。

私たちが知恵ある者の知恵を滅ぼすことはできないし、そうする必要もない。このような仕事は、私たちよりはるかに優れたお方の手にかかっているからである。主は自ら「わたしは……する」と言っておられる。主のおことばに間違いはない。この聖句の中で、主は二度にわたってご自分の目的を明らかにし、「わたしは滅ぼし、むなしくする」と行っておられる。だから、主はその通りにしてくださると確信していればよいのだ。

コロナ罹患にともない。。。

コロナに罹患し、自宅療養が言い渡され、臥せっていました。

 

病気というものは人の身体だけでなく心をも蝕むものと改めて実感いたしました。

 

私は自分の思い付きだけで幾つかのブログを立ち上げ、そのどれをも大切に育てていかなければと思ってきました。しかしながら今回のような不測の事態もございます。そこで元々はじめたブログ「ジンライムの一路」と本ブログ「One Step Beyond」を一本化し、こちらを「ジンライムの一路」と改題させていただきリスタートしようと思います。

 

「ジンライムの一路」というブログタイトル、やはり捨てられないんですよね。刑務所出所後、ブログをやろうって決めていた時、考えに考えて決めたタイトルです。「ジンライム色のお月さま」、好きだった時代小説の「一路」。一番、私を言い表している言葉、子供のようにさえ思えます。

 

コロナ陽性の結果が出て、自宅隔離。刑務所と同じ感覚でした。マイナスな状況の時、サタンはさらに苦しめてきます。一番には私に「こんなブログやめてしまえ!」や、「お前は罪人だ、神の赦しなどないのだ」と言ったものでした。しかし、眼を潰され、裁判を控えていた私に現れてくださった聖霊が私を励ましてくださるのです。状況は似ています。コロナか罪かの違いかだけです。

 

久しぶりにテレビを見ました。ウクライナ情勢まだ続いているみたいですね。(私がYouTubeでみているのは情報が古いかも)忘れてはなりません。私たちは誰の子かを。私たちは王の王の子供です。主が何を望んでいるかはわかるはずです。

 

私たちは、罪人のため、病を負うた人のために来てくださった方イエス・キリストのものなのです。形式や儀礼、くそくらえです。正しいと思うことに目を定め、進もうではありませんか。

 

旧「ジンライムの一路」の記事はすべてインポートしました。

まだ体調が万全ではないため、新規投稿にはお時間をいただきたく思います。

 

 

私が好きな曲(カラオケでも歌います)

白鳥英美子「メロディーズオブライフ」(FF9テーマ)

宛てもなく彷徨っていた
手がかりもなく探しつづけた
あなたがくれた想い出を
心を癒す詩にして

約束もすることもなく
交わす言葉を決めたりもせず
抱きしめそして確かめた
日々は二度と帰らぬ

記憶の中の手を振るあなたは
わたしの名を呼ぶことが出来るの

あふれるその涙を
輝く勇気にかえて
いのちはつづく
夜を越え
疑うことのない明日へとつづく

飛ぶ鳥の向こうの空へ
いくつの記憶預けただろう
儚い希望も夢も
届かぬ場所に忘れて

めぐり逢うのは偶然と言えるの
別れる時が必ず来るのに

消えゆく運命でも
君が生きている限り
いのちはつづく
永遠に
その力の限りどこまでも

わたしが死のうとも
君が生きている限り
いのちはつづく
永遠に
その力の限りどこまでもつづく

 

開いた門が天にあった ヨハネの黙示録4章

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黙示録4章と5章は、黙示録の序論のようなものである。預言というのは神の言葉を蓄えるという意味だと言われるが、神の声を聞いた人が預言者である。黙示というのは神を見た者である。

聞いた者と見た者との間には、大きな進歩というか発展がある。ヨプ記の終わりのところを見ると、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ42:5~6)と書いてある。目で神を拝み見るとき、その神が、このみじめな自分を顧みてくださるということに彼は気づいた。

そういうふうに黙示というのは、夢物語が書いてあるのではなく、神ご自身をあらわされ、そして私たちがその神を見奉ることができるということである。

「開いた門が天にあった」というのは、いままでは門が閉じていて推測する状態であったのが、門が開かれてそこに入り、神の栄光を仰ぎ見るということである。黙示録の終わりのところに、神は人と共にあり、人は神と共に住みとあるが、そういう状態が黙示の世界である。

黙示録というのは、迫害に悩み苦しんでいる者たちに送られたものである。考えてみると、迫害は受動的なものではない。迫害というものはキリスト教信仰をしているから受けるというものではない。迫害は自分が選びとっていくものである。だから能動的なものである。

イエスに弟子たちは逃げようと言った、が、イエスはわたしがいま逃げたのでは、聖書に書かれてある言葉が成就しないと言われた。ご自分の生死よりも、聖書に書かれてあることのあかしのほうがたいせつであるとして、みずから進んで十字架を選びとっていかれたのである。クリスチャンの殉教や苦しみは、選びとっていく苦しみであるところにその重みがある。

聖書を読んで、ほんとうにアーメンと言えるようになるためには、聖書を書いた人と同じような生き方をしなくてはならない。黙示録が迫害の中にある人たちに書き送られたものであるなら、私たちも迫害を受けるほど、信仰生活に徹していかなければならない。黙示録が私たちの信仰の糧となるためには、私たちがやはり殉教者、言葉をかえて言うならば、日々おのが十字架を背負ってわたしに従ってきなさいという道を歩んでいかなければ、黙示録は理解することができない。その伝えようとするメッセージを聞きとることはできない。

黙示録が私たちにとってどんなに慰めの言葉であり、励ましの言葉であるかは、私たち自身の生き方によるのではないだろうか。「友よ、もっと高くまで上がるのだ」。

 

1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。3 その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。4 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。5 御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。7 第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
ヨハネの黙示録4:1~8


1節「その後」。このことばは時間の経過を現している。ヨハネは連続した幻ではなく、未来の様々な時代や出来事を見せられたようである。したがってここで情景と時間が変っている。多くの神学者や聖書解釈者は黙示録のこの時点で(これ以後に書かれている出来事が成就する前)、キリストが「勝利を得る者」を世界から既に連れ出しておられると考えている。

2~3節「天に一つの御座」。御座に着いておられるのは神で、ヨハネはその神の臨在を深く鋭く感じていた。けれども神の姿をはっきり描こうとはしていない。神の栄光があまりにも偉大でことばには言い表せなかったのである。神は「近づくこともできない光の中に住まわれ」ているので、ヨハネはダイヤモンドのような輝きと、炎のような臨在しか説明ができなかった。赤めのうは真っ赤な宝石で、神の贖い(キリストの犠牲の死による人々の霊的救いと回復)を表している。

4節「二十四人の長老たち」。この長老たちはだれだろうか。ある人は天にいる教会全体、つまりキリスト者の群れを代表していると考える。またある人は有力な御使いたちだと言う。けれども御使いたちは既に長老たちの周りに立っている。長老がかぶっている冠は勝利を得た人の冠で、御使いではなく信仰者のために用意されたものである。

さらに、長老たちは旧約聖書のイスラエル(十二部族)と新約聖書の教会(キリストの十二使徒)で、ともに神とイエス・キリストを礼拝していると考える人もいる。この場合二十四人の長老は神の教会全体(旧約聖書と新約聖書の信仰者)を表していることになる。なぜなら、キリストの犠牲(霊的救い、解放、回復)によりあらゆる時代の神の民の贖い(霊的救い、解放、回復)が実現したからである。長老たちは実際の人物でヨハネに話しかけている。

5節「神の七つの御霊神の七つの御霊」は神の御座におられる聖霊を表している。ここで使われていることばはイザヤ書11章2節の御霊についての七通りの表現を基にしていると思われる。数字の「七」は御霊とその働きの豊かさと完全さを表している。聖霊は罪に対するさばきと神のきよさに満ちた燃える火のような方である。

6節「四つの生き物」。四つの生き物とその顔は、あらゆる生き物を表していると思われる。神が造られた生き物はみな神に栄光と栄誉をささげ、最終的には罪ののろいから解放される。 これらの生き物の姿はエゼキエル書1章5~14節のケルビムに似ているけれども、エゼキエル書では生き物は皆同じ顔をしていた。ここでの生き物は、預言者イザヤが、イザヤ書6章1~2節で描いたセラフィムのように、謙遜と敏速さを象徴する六つの翼を持っている。これらの生き物は単なる象徴ではなく、理性のある実際の存在として示されている。目は非常にすぐれた知性を表し、周りで行われていることに注意し気付いていることを示している。

 


「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」。高められた精神は、(新生による)新しい人格が高みにとどまることなしには生まれない。外面的に、あなたが最善を尽くして生活したとしても、神は絶えず、「友よ、もっと高くまで上るのだ」と言われる。

誘惑を受けた場合の鉄則は「もっと高くまで上る」ことである。しかし、高く上れば上ったなりに、異なる誘惑と特徴に直面することになる。サタンも、高く上れ、という戦法を用いる。神も同様にそうされる。しかし、その効果は全く異なる。悪魔があなたを高みに引き上げた場合、聖潔に対するあなたの考えを、血肉のからだを持つ人間には決して到達できないものに固定してしまう。それは一種の霊的な曲芸のようなもので、静止を余儀なくされ、身動きがとれないものとなる。

しかし、神がその恵みによって天の高みにあなたを引き上げてくださる場合には、尖塔の突先を見つけて、しがみつく必要はない。のびやかに動ける広々とした高原が広がっているからである。あなたの霊的生活が、今週と昨年の同じ週でどう違うかを比べ、神が高みに引き上げてくださったことを確かめてみるとよい。私たちはみな、以前より高い地点から眺めることができるように導かれている。

すぐに到達できないような真理を示してください、と神に願ってはいけない。むしろ、その真理の光にとどまり、常に少しずつ実践していくことである。恵みによる成長を測るのは、信仰的に後退しなかったという事実ではなく、自分が今、霊的にどこにいるかが分かる、という洞察力である。

あなたは「もっと高くにまで上れ」という神の声を聞いた。それは耳を通して、というより、あなたの人格の洞察力を通してである。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世18:17)と主は言われた。私たちの人格が神からの啓示を受けられる段階に達するまでは、神はご自身がなそうとしておられることを私たちの目から隠しておかなければならないのである。

オズワルド・チェンバーズ

全面的な明け渡し マルコの福音書10章

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17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
マルコの福音書10:17~22

 

10章17節からは富める青年の話である。ここのところでイエスが強調されたことは、律法は神から与えられたものであり、律法を守る以外に私たちが神から永遠の命を与えられる道はなく、律法は一点一画もおろそかにはできないということである。青年は律法を実行していると言ったが、彼の行為自体に問題があった。それは、自分のできる範囲のことをしていただけで、できないことはしないという行為であった。

私たちにも、かわいそうな人、苦しんでいる人を助けてあげるようなことはできる。しかし、憎い、あつかましい、受け入れにくい人に対して愛のわざをしていくことはなかなかできない。そこに律法の厳しさがある。この青年は哀れな者に対する愛は知っていたが、憎い者に対しては愛を施せなかった。それでは律法を成就しているのではない。神の求められる律法は、あなたがたの敵を愛し、かたきのために祈れということである。しかし、このことをこの青年は理解できなかった。

ザアカイが自分の財産の半分を貧民に施しますと言ったことをイエスはほめられたが、ここでは、持ち物をみな売り払って貧しい人に施しなさいと言われた。「みな」というのは数量的なことではなく、そのことに徹することを言っておられると思う。青年のしていることは、自分が損しない限りにおいてしているにすぎず、それではほんとうに律法を行っているのではないことを示されたのである。

弟子たちは、この話を聞いて驚いたが、イエスは「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と言われた。たとえば、私たちもいやな人を半日や一日は愛することができるかもしれないが、それはいつまでも続くものではない。それができなければ救われないとすれば、いったい誰に救われる資格があるだろうか。律法は人間では守り通すことはできない。しかし、神にはできる。

それは神に祈願すれば、愛を成就することができるようになるということよりも、十字架をさしている言葉である。イエスの十字架のいさおしによって許されるという世界でしか、私たちは律法の成就を見ることはできないということである。

 

新約聖書の時代からユダヤ人の間では一般的に、富は神の特別の好意のしるしであり、貧しさは不信仰や神に喜ばれていないしるしであると考えられていた。特にパリサイ人はそのように考えて、反対の考えを持っておられる主イエスを見下げてあざ笑っていた。この間違った考え方はキリスト教の歴史の中でも繰り返し強まっていった。けれどもキリストはそれを完全に否定しておられた。

聖書はどん欲と富を得ようとする強い欲望は偶像礼拝の罪と同じで、悪魔的であり悪魔の働きと力に結び付いているとしている。物質的な持ち物に頼ることは悪と腐敗に結びつく。したがって、豊かになることを望んでそれを追い求め続けるならその奴隷になってしまう。

主イエスの考えによると、救い(キリストの赦しを受入れてその導きに従い、神との個人的関係を持つように心を開くこと)と弟子になること(キリストに従い続け、神の目的を追い求め、神との関係を成長させること)にとって富は邪魔である。富はにせの安心感を与え、人をだまし、完全な忠誠心を人の心に要求する。

その意味で、富は人々の生活の中でその人の神になってしまう。多くの豊かな人はまるで神が必要ではないかのような生活をしている。富を追い求めるなら霊的生活は窒息し、人々はあらゆる種類の問題や誘惑や有害な欲望に引きこまれるようになる。その結果しばしば、救いと人生の本当の目的を与える神を信じる信仰が失われてしまう。また社会では、金持ちが貧しい人々をたくみに利用していることがしばしば見られる。したがってキリスト者は物質的に豊かになろうとする欲望に捕われてはならない。

 


28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
マルコの福音書10:28~30

ペテロが述べたことに対する主のお答えは、要するに、「すべてを捨てる」のは主ご自身のためであり、弟子たちが何か利益を得るためではない、ということであった。「すべてを捨てる」と言いながら、利己心が潜む場合には警戒しなければならない。「罪から解放されたいので、そして聖くされたいので、私は自分を神に献げます」といったたぐいのものである。そのすべては神との関係が正しくされた結果ではあるが、その精神はキリスト信仰の本質にそぐわない。

自分を放棄する、というのは何かを得るためにすることではない。私たちは御利益を求め、神のためにではなく、神から何かをいただくために神に近づこうとする。それはこう言うのと同じである。「主よ、残念ですが、あなたに用はありません。自分の好きなようにしたいのです。しかし、私を清めて聖霊で満たしてください。展示場に並べられるときがきたら、『神さまのおかげで私はここまでになれた』と自慢したいのです」と。

私たちが何かを神に献げる目的が、もっと大きな見返りを求めてのことであれば、その「放棄」には聖霊の働く余地が全くない。それは、営利目的の哀れな利己主義である。天国への切符を手に入れること、罪から解放されること、そして神にとって有用な存在にされることのどれも、真の明け渡しをする際に考慮するべきことではない。真の全面的明け渡しとは、何をさしおいてもイエス・キリストを優先するということなのである。

家族の人間関係に障害ができた場合、イエス・キリストはどこにおられるだろうか。私たちの大半は、次のような言い訳をしてイエスを見捨ててしまうことであろう。「はい、主よ、召しの声は聞こえましたが、母も妻も反対していますし、自分の利益にも反しています。したがって、これ以上お供をすることはできません」と。するとイエスはこう言われる。「あなたはわたしの弟子にはなれない」と。

本当の明け渡しは、人間的な情を乗り越えていくものである。そうすれば、神はご自身をなげうってまでも、あなたが自己放棄したことに心を痛めた人々を抱き寄せてくださるのである。神に対する全面的な明け渡しに至らないことがないように警戒せねば。私たちのほとんどは、明け渡しのイメージを持っているだけで、本当はまだ一度も経験したことがないのである。

オズワルド・チェンバーズ

ハートブレイカー

骨休めにとりとめもない記事を書いてみた。

 

昨日で仕事の忙しさがひと段落して体を休めている。私の仕事は資源ごみの回収。市から委託された業者に忙しい時だけ手伝いに行っている。それで月初めは忙しいのだ。

そして今日は、以前から調子が悪かった炊飯ジャーとシェーバーを買い換えようと思い立ち、買い物に出かけて来た。

先ほど部屋に帰り着き、ビールに手を伸ばしたところである。ボーっとビールを飲みつつ、愛犬ミルを撫でている。年寄り犬なので寝てばかり。

一昨年ぐらいのミルの画像。

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撫でながらふと、前に飼っていたダックスフンド、ロダのことに心が向いた。ロダは長野県に在住していたころ飼っていた犬。長野県を離れねばならなくなって、母教会の牧師に託すことになった。

母教会の牧師が引き取り先を探してくださり、現在は小海キリスト教会牧師(当時)、水草修二先生に引き取っていただいた。

先日、水草先生と連絡を取ったら、まだ健在とのこと。安心した。水草先生に感謝。

 

ところで「ロダ」という名前だが、新約聖書の使徒の働き12章に出てくる。私の帰宅を「大喜び」して迎えてくれれば、という願いからである。

11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。13 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、14 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。15 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。16 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。17 ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。18 夜が明けると、兵卒たちの間に、ペテロはいったいどうなったのだろうと、大へんな騒ぎが起った。
使徒の働き12:11~18

 

ロダ、数年前の画像を入手。

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なんか気分でこの曲が聴きたくなった。
ディオンヌ・ワーウィック「ハートブレイカー」
ビージーズが手がけた作品で、コーラスでも絶妙のハーモニーを聴くことができる。