ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

幻を待つ忍耐 ハバクク書2章

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私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。
ハバクク書2:1

 

ハバククは「抱擁する」という意味である。「指揮者」とあるので、エルサレムの音楽家かレビ人(レビ族の家系で、神の民の中で祭司職や礼拝を導く役割を果たしていた)だったと思われる。

前612年、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国、ニネベは陥落した。そのころ、南王国のユダは、暴虐と闘争、不正と不法がはびこり、霊的退廃のなかにあった。預言者ハバククは、主に向かって、「なぜユダ全土をおおっている悪に何もなさらないのですか」と強く訴えた。神はそれに応答して、バビロニヤ人を送ってユダを罰することを啓示された。

預言者はさらに問いかける。「なぜ神はユダよりもっと邪悪で残忍な国に神の民を罰することを許されるのですか」と。私たちは自分たちを取り巻く世界を見るとき、正義の神がおられるならどうしてこんな不正、不義、悪業を放って置かれるのかと神に訴える。でも、その答えは簡単ではない。ハバククは主の答えを得ようとして、見張り所に立ち、ひとり静かに全身全霊を集中して神の御声を聞こうとした。

主は彼に答えられた。さばきは主の定めた通りに必ず遅滞なく実行される。だから預言のことばを板の上に書き記してそのことを急いで知らせるようにと命令された。私たちは、この世の悲惨な出来事に直面するときに、「どうして」という疑問を投げかけ、その原因を問い、意味を考える。でも、答えが見つからないので、あきらめてしまう。

 

この幻は、なお、定めのときのためである。それは終わりについて告げ、まやかしを行ってはいけない。もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
ハバクク書2:3

 

こんな話がある。
ある人が天国に行き、あちらこちらを案内してもらった。彼が一つの建物に案内されたとき、そこには大きな小包の山があった。よく見るとこれらの小包の中に自分宛のものがあった。そこで彼は案内人に向かって、「これはわたし宛の小包じゃありませんか、どうしてここにあるのですか」ときいたところ、案内人は、「これはみな一度送り届けましたが、受取人不在のため返送されたものです」と説明したそうである。これは、祈る時には熱心に求めるが、いつの間にか祈ることを忘れ、あのときの熱心な自分がいなくなってしまう私たちの信仰の弱点を突いた話である。

この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる。それは偽りではない。 もしおそければ待っておれ、それは必ず臨む。滞りはしない。と主はハバククに言われた。人間は「今」だけを見て一喜一憂しやすい。しかし、神のご経綸は一時的なものではない。遠大なご計画、完成を目指してのご配慮に基づくものである。

美しい織物も金糸や銀糸だけでは生まれてこない。時には暗い糸、どす黒い糸も必要なのである。大切なことはそれらがすぺて完成を目ざして用いられていることである。一糸乱れず、神はこ自身の思いどおりにこの世を支配したもう。そういう神のみ前において大事なことは、「それは必ず臨む。滞りはしない」という確信である。どんな目まぐるしい動きの中にあっても、それを確信して待つことが肝要である、と主は言われる。

 


忍耐とは平静を装うことではない。忍耐という言葉には、どのような攻撃にもびくともしない強固なイメージがある。神からの幻こそは、忍耐の源である。それは心深くにインスピレーションを与えてくれるものだからである。モーセが耐え忍んだのは、自分が正しいと思うこと、また義務と思うことに自分を献げていたからではなく、神からの幻があったからである。

「目に見えない方を見ているようにして、忍び通したからです」(ヘブル11:27)。神からの幻がある人とは、偉大な目的や具体的な問題に心血を注ぐ人のことではなく、神ご自身に自分を献げる人のことである。幻が神からのものであると常に分かるのは、幻に伴って受けるインスピレーションがあるからである。なすべき事にやりがいがあり、生活に張り合いがある。あらゆるものが神の力を帯びているのである。

ところが神からのことばが一つもない、という試練の時を神はあなたに与えるかもしれない。それはちょうど、御子が荒野の試みで実際に経験されたことである。神がそうされたときには、ひたすら耐えることだ。あなたには耐える力も備えられているはずである。あなたには神が見えているのだから。

「もし遅くなっても、それを待て。」すでに達した以上のところに行こうとしているということは、私たちが幻を持っている証拠である。霊的に満足するのは悪しきことである。「私は主に何と応えたらよいのでしょう。私は救いの杯を掲げ(ます)」(詩篇116:12~13)と詩篇作者は言う。ところが私たちはともすると、今の自分の中に満足を見出そうとして言う。「やっと手に入れた。私はすっかり聖められた。これで耐えることができる」と。その瞬間、私たちは堕落に向かうことになる。

 

私たちがどんなに努力しても幻に到達することはできない。幻がおのずと実現する時まで、幻を励みに生きるべきである。私たちは実際的なことに目を奪われ、幻を忘れがちである。最初に幻を見たはずなのに、その実現を待たなかった。実際的な働きには急いで取りかかったが、幻が実現したときに、それを見届けもしなかった。

なかなか実現しない幻を待てるかどうかは、神に対する私たちの忠実さを測るテストである。実際的な働きに熱中し、せっかくの幻の実現を見逃してしまうなら、私たちのたましいは危険にさらされる。

私たちは自分が達した以上のところを目指さなければならない。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです」(ピリピ3:12)。今まで経験したことがすべてであるなら、私たちは何も持っていないのと同じである。しかし、神からの幻というインスピレーションを受けるなら、まだ経験すべきものが多く残っているのである。霊的に「くつろいで」しまう危険に注意しなければならない。

オズワルド・チェンバーズ